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【キングダム】六将と呼ばれた王齕の実力とは?史実をもとに徹底解説!!

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この記事では秦の六大将軍のひとりであった王齕についてご紹介していきます。

六大将軍はすでに過去の伝説的存在になりかけており、故人である王齕の描写も非常に少ないのですが、実は史実での王齕は人気将軍・王騎と同一人物とする説もあり『キングダム』ファンにとって注目すべき人物なんです。

それではさっそく『キングダム』の王齕について、作中でのエピソードと史実を元にその活躍から王騎と同一人物説まで分かりやすく解説していきます!

 

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【キングダム】王齕のプロフィール

王齕は秦国の大将軍で、旧六大将軍の一人

すでに故人のため、作中では回想シーンで少し描写されているのみで比較的謎の多い人物です。

 

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【キングダム】王齕の特徴

王齕は長く伸ばした口髭・顎髭と、顔の右側を斜めに走る傷が特徴

逞しい体と無骨な雰囲気を持った厳つい武将です。

 

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【キングダム】王齕の強さとは?

王齕の強さについて、作中では「王齕将軍と言えば六将一の怪力豪将」と言われています

武器は大斧。

この大斧をもって敵を叩き斬るような、武力に長けた豪傑だったのでしょう。

 

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【キングダム】王齕は実在した?

史実をもとに描かれている『キングダム』ですが、王齕も『史記』に記された実在した人物

秦の昭襄王・荘襄王に仕えた将軍でした。

王齕の活躍が書かれているのは紀元前260年頃、作中でも言及されている「長平の戦い」あたりから

長平の戦いは『キングダム』読者にも馴染みがあるかと思いますが、ここで総大将を務めていたのが王齕でした。

経緯としてまず韓の北部・上党を巡るいざこざの末、王齕を大将軍に据えた秦が上党一帯を制圧します。

そして上党の人々が趙の長平へ逃げ込み、王齕軍がそれを追い趙に攻め込んだことで長平の戦いが勃発したのです。

趙の将として迎えうったのは作中でも描かれている通り、三大天とされている廉頗。

ここで3度行われた小戦で、王齕率いる秦軍は廉頗率いる趙軍に全勝しているんです。

小競り合いではありますが、あの廉頗相手にと考えると凄いですよね。

しかし廉頗が籠城作戦に切り替え守備を固めたことで王齕は攻めきることができず、長平は膠着状態になってしまいます。

それを打開すべく打ち出した秦の宰相・范雎の策により、趙の総大将が廉頗から趙括に交代。

その時、趙総大将の交代に伴い秦の総大将も秘密裏に王齕から白起に交代し、王齕は白起の副将になりました。

その後の長平の結末は、作中でも描かれている通り白起のもと秦の大勝利に終わります。

ほかにも王齕は趙の武安君を討ち皮牢を取ったり、王陵に代わり趙の邯鄲を攻めたり、張唐とともに魏を攻めたり、蒙驁とともに合従軍を迎えうったりと、強国・秦を支えていた様子が記されています

 

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【キングダム】六大将軍とは?

王齕が名を連ねる六大将軍とは、昭王によって「戦争の自由」という特権を与えられた秦の6人の大将軍のこと

構成員は白起(はくき)、胡傷(こしょう)、司馬錯(しばさく)、摎(きょう)、王騎(王騎)そして王齕(おうこつ)です。

当時常に他国に侵攻し同時に数国と戦っていた秦において、この6人の大将軍は数多の戦場を駆けまわり、近寄るだけで敵が平伏し城を明け渡すほど中華全土に武名を轟かせていました。

そんな6人に対し咸陽が連携を図ることが逆に足枷になると察した昭王が、彼らを動きやすくするために作ったのがこの六将制度です。

「戦争の自由」により六将は刻一刻と変化する情勢・戦況に対して、本営の確認を取らず独断で戦いを展開することを許されるようになりました。

ただし六将制度は、より素早く大胆な戦いができるようになる反面、各将自由なぶん謀反の懸念も付いて回る危うい制度です。

その“諸刃の剣”的制度が成立していたのは、昭王への揺るぎない忠誠心があったから。

“鉄の忠誠心”のもと独自の意思で暴れ回る龍となった六将は、他国に対する大きな脅威として恐れられていたのでした。

その後「六大将軍」の名に見合うほどの者が現れず武威が失われかけていましたが、中華統一を目指す政が六国制覇のために今必要だと判断し、六国制度復活を宣言。

そして蒙武、騰、王翦、楊端和、桓騎が新たな六大将軍に任命されたのでした。(残る一席はひとまず空席)

ちなみに「六大将軍」は史実には無い『キングダム』オリジナル制度です。

 

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【キングダム】王齕と汗明の関係性とは?

王齕に関する描写は少ないですが、第311話にてエピソードが1つ語られました。

それは王齕が楚の汗明と戦い敗れたというもの

函谷関の戦いまで秦と楚は20~30年戦いはありませんでしたが、実はその間一度だけ攻め入ってきた者があり、それが王齕だったそうです。

そして王齕は項燕大将軍の副将として迎えうった汗明にあっさり敗れ、手ひどく傷を負って逃げ去ったと汗明は言いました。

汗明自身の言葉なので話の真偽は不明ですが、秦国内にも「口外を禁じられた対楚の敗戦がある」という噂はあったようなので信憑性は高いのかもしれません。

ただし史実にはこのようなエピソードはなく、汗明も武将と言うより遊説家と言える人物だったようですから、『キングダム』における汗明という楚の大将軍の強さ、ひいては蒙武の強さを表現するために作られたオリジナルエピソードと考えて良さそうです。

少なくともこのエピソードから「王齕=弱い」という印象を抱くのは可哀想です。

 

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【キングダム】王齕と王騎の関係性とは?

実は王齕は、王騎と同一人物なのではないかという説があります

それは『史記』の「秦本紀」に登場する王齕がその後の「秦始皇本紀」では一切触れられず、逆に「秦本紀」に登場していなかった王騎が「秦始皇本紀」で初めて登場しているからです。

活躍時期がほぼ同じ将軍なのに、2人してどちらかにしか名前が無いなんて確かにおかしいですよね。

この同一人物説は、遅くとも『史記集解』が作られた南朝宋の時代には論じられていたようです。

 

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【キングダム】王齕は死亡した?

王齕・王騎同一人物説の信憑性を高めているのが、王齕の死亡が曖昧になっていることです。

『キングダム』でも王齕の死因は描かれていませんが、史実での王齕は最後、紀元前247年に魏の信陵君による合従軍を蒙驁と共に迎えうったが敗れ、その軍を解散したとされているのみ。

その後王齕がいつまで生きたのか、どのように亡くなったのか分からないのです。

そこに「秦始皇本紀」の王騎の記載です。

王騎の史実は「紀元前246年に秦王・政が即位すると、蒙驁・麃公らとともに将軍に任じられた」ということから始まります。

史実の王騎のキは『齮』なので王齕の『齕』の字に近いのですが、新王の即位に伴い王齕が新たな字を貰ったとか、王齕自身が名前を変えたとか、「秦始皇本紀」にあたり司馬遷が何かしらの理由で表記を変えたとか、後世に伝わる中で変化してしまったとか可能性は多々ありそうですが、どちらにせよ同一人物説は濃厚だと感じます。

となると王騎は紀元前244年に亡くなったとありますので、同一人物であれば王齕もそこで亡くなったのでしょう。

ちなみに『キングダム』では長平の戦いの白起の副将として王齕ではなく王騎が描かれていたりしていますので、同一人物説を取り入れながら別々の人物として昇華しているようです。

史実を元にしながらもオリジナルでうまく味付けし歴史を熱く描いているのが『キングダム』の魅力ですよね。

 

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まとめ

王齕はかつて中華全土に名を轟かせていた秦の六大将軍のひとりで、六将一の怪力を持つパワー型の武将です。

作中では今のところ「汗明に負けた」という残念なエピソードしかありませんが、史実では長平の戦いを含めた対趙や対魏で活躍していた優秀な武将だったことが窺えます。

また王騎と同一人物説も濃厚であり、王騎を知る上でも王齕は欠かせない存在です。

果たしてまた活躍が描かれる日が来るのか期待しながら、是非史実と合わせて王齕という人物に注目してみてくださいね!

 

読者の皆さまがこの後に読んでいる記事はこちらです。

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