嬴政加冠編は文字通り嬴政が加冠するめでたいエピソード。
のはずでしたが、旧都・雍にて儀式が行われている間になんと咸陽で戦いが勃発していました。
しかもその咸陽の戦いが、嬴政と呂不韋の長きに渡る覇権争いに決着をつけることになります。
それでは咸陽の戦いとはいかなるものだったのか詳しく解説していきます!
Contents
【キングダム】嬴政加冠編のあらすじ
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キングダム/©原泰久
紀元前239年、太后の強引な意思により嫪毐が山陽長官に就任。
その後太后と嫪毐は極北の地・太原に入り、そのまま「毐国」の建国を宣言してしまいます。
毐国は楚との密通や他国の支援により見る見る成長し、秦にありながらも独立国家の体を為していきました。
すると毐国は反乱を起こし、翌年の嬴政加冠の日に咸陽に侵攻。
これまで函谷関に守られていた咸陽が、反乱軍によって初めて蹂躙されようとしていました。
しかしそこへ反乱を予期していた大王派により、反乱鎮圧軍が到着。
そしてこの反乱軍と鎮圧軍による咸陽の戦いに、嬴政と呂不韋の玉座争いの決着が委ねられようとしていたのでした。
【キングダム】嬴政加冠編は何巻?
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嬴政加冠編は単行本37~40巻の内容です。
この嬴政加冠編は呂不韋との覇権争いという“内”から中華統一という“外”に物語の舞台が移るターニングポイントとして、必ず押さえておきたいエピソードです。
【キングダム】咸陽の戦いの発端
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咸陽の戦いの発端は、毐国の建国です。
毐国は太后と嫪毐が秦極北の都市・太原にて勝手に作った独立国家のようなもの。
建国の目的は、太后が嫪毐と彼との間に出来た2人の子供と過ごす「安住の地」を作るためでした。
ところが子供の存在がバレたことから臣下たちに「咸陽が攻めてくる前に急襲するべき」と唆され、嬴政加冠の儀の日に咸陽に向けて挙兵するに至ります。
毐国軍は表向きは“秦軍”ですから、合従軍さえ退けた函谷関もあっさりと通過して咸陽に侵攻。
しかし一方で咸陽も毐国の動向を予期しており、反乱鎮圧軍を呼び寄せていました。
かくして咸陽を舞台とした前代未聞の戦争が勃発したのでした。
【キングダム】咸陽の戦いの首謀者とは?
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反乱の首謀者は毐国君主・嫪毐とされましたが、実は毐国を挙兵させた裏の首謀者がいました。
それは呂不韋です。
呂不韋は毐国大臣の虎歴と通じ、毐国を反乱に扇動。
毐国軍に自らの手の内にある武将を送り込んだほか、函谷関や咸陽城門にも呂不韋派を置き毐国軍が進軍しやすくするなどして咸陽の戦いを引き起こしていきました。
理由はもちろん秦国を手に入れるため。
呂不韋は嬴政と長きに渡って玉座を巡る勢力争いを続けてきましたが、その決着のために毐国を利用しようと考えたわけです。
呂不韋は反乱軍に咸陽を落とさせてから蒙武を引き連れ反乱を鎮圧することで、秦国民の支持を得て王になろうとしていました。
つまり反乱軍が鎮圧軍に勝利すれば呂不韋が王に、逆に反乱軍が敗北すれば呂不韋も敗北し嬴政が王になるという結末になります。
【キングダム】反乱軍の目的とは?
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反乱軍の目的は咸陽を落とすこと。
その軍容は約3万で、大きく分けて3種類の兵がいました。
将軍・樊於期率いる毐国軍(1万)
樊於期らは呂不韋が王になるために協力しており、王族を根絶やしにしながら咸陽を火の海にし、雍にて加冠した嬴政をも殺害することで“悪逆非道な反乱軍”を印象付ける役目を負っています。
呂不韋が救国の英雄となり王に君臨するために最も重要な者たちです。
ワテギ率いる戎籊族(1万)
戎籊族はかつて小王国だったものの、約100年前に秦に取り込まれ“県”にされてしまったという恨みを持つ者たち。
樊於期に誘われて反乱に参加した彼らは、樊於期らの意思を理解しながらも秦への恨みを晴らすという目的を果たそうとする、反乱軍の中でも最も敵意を持った者たちです。
道中で徴集された秦兵(1万)
樊於期が函谷関までの道中で集めた兵たち。
偽の玉璽により「咸陽の警護」と言われ付いてきたため自分たちが反乱軍となることは知りませんでしたが、咸陽が近づくにつれ樊於期の策により「後に引けない反逆者」であることを自覚していきました。
身を守るため、もはや反乱を成功させざるを得なくなった者たちです。
【キングダム】反乱鎮圧軍とは?
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一方で大王派は毐国の反乱を予期していました。
もちろんその裏に呂不韋の影があることも。
そのため嬴政は信頼のおける者たちを反乱鎮圧軍として密かに咸陽に呼び寄せていました。
その者たちとは、飛信隊と蕞の民兵。
蕞防衛戦で嬴政と共に命を懸けた者たちですね。
特に蕞兵の存在は、秦国内の軍容に厳しく目を光らせていた呂不韋派にとって盲点でした。
ただし飛信隊は行動を共にしていた騰軍・隆国に無許可での出撃であったため、千人ほどしか駆けつけられませんでした。
【キングダム】渡河の戦い
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飛信隊は咸陽手前の渭水にて蕞兵1万と合流。
飛信隊が渭水に渡れるように、蕞兵が舟を用意して待っていました。
ところが対岸にはちょうど咸陽付近まで進軍してきていた反乱軍が、鎮圧軍を渭水に鎮めようと待ち構えていました。
しかし飛信隊は舟のまま錐型の陣を取り強行突破!
盾で身を隠し敵の矢を退けながら前進し、着岸直前で一斉に矢を放つことで上陸拠点を切り拓いたのです。
舟においても持ち前の突破力を発揮し渭水を渡河したのでした。
【キングダム】信の絶対任務とは?
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反乱鎮圧軍の目的はもちろん反乱の鎮圧=咸陽を守ることです。
しかしそれと同時に、絶対に果たさなければならない任務がありました。
その任務とは嬴政の御子を守ること。
呂不韋と通じているならば、反乱軍は咸陽を陥落させるだけでなく“王族を消し去ろう”とするはずです。
ならば一番狙われるのは嬴政の幼い子供。
秦国のためにも嬴政のためにも、絶対に嬴政の御子を助けなければなりませんでした。
【キングダム】鎮圧軍に駆け付けた最強の援軍とは?
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反乱軍3万に対し鎮圧軍は1万しかおらず、反乱の鎮圧は思うように捗りませんでした。
しかしそこに思わぬ援軍が現れます。
それは加冠の儀の後に雍から駆けつけた昌文君や壁…だけでなく、なんと呂氏四柱である昌平君までいました。
昌平君は嬴政と共に中華統一を目指すべく、全てを失う覚悟で「世話になった」と呂不韋から離反したのです。
しかも昌平君の武将としての手腕は見事で、合わせて千騎ほどでの援軍だったにもかかわらず形勢を逆転させてみせたのでした。
また昌平君直下の近衛兵も、鎮圧軍の大きな戦力となりました。
【キングダム】咸陽の戦いで活躍した武将とは?
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咸陽の戦いで活躍した武将は何といっても昌平君。
軍総司令ではなく“武将として”です。
なんと昌平君は蒙武並の強さを持っており、咸陽を囲む反乱軍を蹴散らしていきました。
さらに僅かな兵力ながらも「包雷」にて反乱軍を包囲。
そのまま敵将ワテギを一騎討ちにて見事討ち取ってしまいました。
それが決定打となり反乱軍は敗走。
昌平君の活躍により反乱が鎮圧したと言えるのです。
そもそも飛信隊が咸陽の戦いに駆けつけられたのも、事前に昌平君が連絡したおかげです。
つまり咸陽の戦いは最初から最後まで昌平君がカギになっているのです。
【キングダム】咸陽の戦いの結末
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飛信隊は無事、嬴政の娘・麗を保護。
長子・扶蘇も無事でした。
また昌平君がワテギを討ったことで反乱軍は敗走し、咸陽の戦いは鎮圧軍の完全勝利となりました。
反乱軍は咸陽から撤退後、昌平君が呼び戻していた桓騎軍に捕まり粉砕。
首謀者・嫪毐は車裂きの刑となり、毐国は滅亡し、呂不韋は失墜しました。
【キングダム】咸陽の戦いは実在した?
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嫪毐を首謀者とする反乱は『史記・秦始皇本紀』にも記されており、『キングダム』にも引用されています。
ただし概要としてはほぼ作品に反映されているものの、作中で描かれているような“咸陽の戦い”というまでには至らなかった様子。
反乱を“起こそうとした”レベルであり、クーデターもままならぬまま昌平君と昌文君に咸陽で迎撃され早々に鎮圧されたようです。
まとめ
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咸陽の戦いは函谷関で堅く守られていた咸陽に起きた、毐国による史上最大のクーデターでした。
嬴政も呂不韋も不在の咸陽で起きた戦いに、2人の決着が託されたというのが面白いですよね。
だからこそ昌平君の呂不韋派離反も含め、嬴政のもとに一丸となった鎮圧軍の意志と活躍が熱いので必見です!
