紀元前241年、中華史上2度目の合従軍が起きました。
何故合従軍は起きたのか?
そして、圧倒的戦力差でありながら何故合従軍は破れたのか?
合従軍編の詳細を紐解いていきましょう!
Contents
【キングダム】秦の山陽侵攻の思惑とは?
秦対趙の馬陽の戦いから1年後、秦国丞相である呂不韋の画策により趙の宰相である李牧が咸陽を訪れます。
これは呂不韋が、趙王の寵愛する春平君という青年を誘拐し、返してほしくば「宰相自ら迎えにこさせろ」と脅迫した為でした。
やる事が大胆不敵ですが、これがまんまと成功し、どちらかといえば秦よりの好条件で「秦趙同盟」が成立するのです。
そしてこの機を逃すまいと、昌平君は魏の山陽攻略に乗り出します。
山陽は秦が中央に進出する為には、どうしても必要な要所だったのです。
本来であれば趙も魏に援軍を送り、秦の山陽攻略を阻止したい程でした。
それ程に山陽は最重要拠点だったのです。
【キングダム】中華統一を阻止する合従軍
秦が山陽を攻略し「東郡」と名前を変え、秦から大量に移民させます。
この時代は領土を奪い奪われの時代にも関わらず、名前を変え秦民を移住させる行為は、絶対にこの地を渡さないという意思表示でした。
李牧は山陽攻略によって、秦が本格的に中華統一に向けて動き出したと気づいていました。
そしてそれを阻止しようと、楚の宰相である春申君と画策し、合従軍を起こします。
王騎や劇辛といった傑物を討ってきた李牧の呼びかけに、各国の王が答え、斉を除く5国が大軍を秦に向けて進軍しはじめたのです。
目的は秦の中華統一の阻止。
そして秦の滅亡でした。
ここに中華史上2度目の合従軍が起きたのです!
【キングダム】合従軍を壮大な囮にした李牧
斉を除く5国から同時に攻め込まれた秦は、国門である函谷関で迎え討つ事にします。
戦力で圧倒的に劣る秦軍でしたが、武将の質が上回ったせいでしょうか、要所で劇的な勝利を収め、合従軍が函谷関を抜くのが困難な状況になります。
この戦いは、合従軍が函谷関を抜けるかどうかがポイントでした。
函谷関を抜く事が出来ない時点で、ほぼ秦の勝確でした。
王宮内は歓喜にわいていました。
しかしここで思いもよらぬ報告が舞い込みます。
南道ルートの城が次々に落とされてしまうのです。
何が起こっているのか理解できない文官達でしたが、攻め込んでいるのが趙軍で率いているのが李牧というのが判明します。
なんと李牧は開戦当時から、敵味方双方にバレないように、少しずつ兵士を南道に送り込んでいたのです。
函谷関を抜けるのがベストだったのでしょうが、それがならなかった時の為に奥の手を仕込んでいたのです。
さすがは李牧。
合従軍という大軍勢を壮大な囮に使ったのでした。
【キングダム】李牧最強の戦術「流動」
李牧の南道攻略に唯一気づいた武将がいました。
本能型の武将 麃公でした。
麃公は信率いる飛信隊と共に、李牧の南道侵攻の後を追いかけます。
そして後方から一気に急襲したのです。
南道は狭路である為、まともな陣も組めず、李牧軍は麃公軍と飛信隊の突撃になす術がありませんでした。
しかし、李牧は少しも慌てず「流動」という戦術を使います。
これは魏が秦に侵攻してきた時、麃公相手に呉鳳明が使おうとした戦術でした。
この時は危険さに気づいた麃公が、引き換えした為に実施はされませんでした。
流動は水の流れのような戦術です。
李牧軍が渦を巻いて絶えず動き、渦の中にあって不動の石の役目の隊が、飛信隊や麃公軍を分断してしまうのです。
この戦術を上から見下ろして操るのではなく、全員と同じ目線で操る李牧はやはり化け物なのでしょうね。
この単純そうで複雑な戦術を、初見で見破るのは不可能な事でした。
しかし!
麃公もまた化け物並みの感覚を持ち合わせていたのです!
なんと、本能で李牧の居場所までたどり着いてしまうのです!
こんな戦術を操る李牧はさすがですが、それを直感で見破る麃公もさすがですね!
【キングダム】麃公を討ち勝てるはずだった戦
李牧の繰り出した秘策「流動」をも見破った麃公でしたが、目の前に龐煖が突如現れます。
王騎をも討った龐煖と戦の申し子麃公との一騎打ちになります。
麃公は龐煖の左腕を折るなど善戦しますが、武神と呼ばれる龐煖は強すぎました。
麃公は龐煖に一刀両断され、この世を去る事になるのです。
麃公の死にショックを受け、麃公ロスとなってしまったファンが大勢いたとかいないとか・・・
それ程にキングダムでは大きな存在だったのです。
主人公である信にも、相当な影響を与えてくれた武将でしたね。
そんな麃公を討ち取った事で、李牧の南道侵攻を止めうる勢力は無くなってしまいました。
飛信隊や麃公軍残党兵も戦意喪失してしまっていました。
あの信でさえ・・・
李牧にしてみれば、既に大勢は決していたはずで、勝てる戦いでした。
勝てる戦いだったはずでした・・・
【キングダム】蕞での政と民兵の鉄壁防衛
蕞での戦いは秦にとって、奇跡の連続でした。
蕞の住民は李牧軍に降伏するつもりでした。
蕞を守るべき兵士達は、ほぼ全員が函谷関に派遣されていました。
なので、蕞には女や子供や老人、怪我人などが主でした。
とても兵士と呼べる者達ではありませんでした。
しかし、国王である政の激で住民が民兵へと変貌したのです。
更に民兵から屈強な戦う戦士へと変貌し、なんと6日間も蕞を守り抜くのです。
途中何度も倒れそうになりながらも、国王の為、秦の為に戦い抜くのです。
そんな住民のがんばりに触発されるように、飛信隊や麃公兵、昌文君や介億も奮闘し、蕞を守り続けたのでした。
【キングダム】龐煖投入でも討てなかった飛信隊
蕞攻防戦の終盤、龐煖がまたしても現れます。
攻城戦には参加しませんでしたが、麃公に続き今度は飛信隊隊長である信との一騎打ちになります。
信と龐煖が相対するのはこれが2回目でした。
最初に対峙したのは馬陽の戦いの時で、この時は羌瘣と連携して挑み2対1の状況でした。
この2人なら・・・
仲間はだれもがそう思っていました。
それ程、信と羌瘣の武力は抜き出ていました。
しかし、龐煖は更に上の存在でした・・・
羌瘣と信の2人がかりでも全く相手にならなかったのです。
この時は信も羌瘣も完膚なきまでに叩きのめされてしまいました。
気絶した2人を飛信隊の仲間が抱えて逃げる事しか出来ませんでしたが、この時の仲間の判断のおかげで、信や羌瘣と飛信隊そのものは生き延びる事が出来たのです。
今回の一騎打ちも、信が勝てるはずがありませんでした。
しかし、信は最初に強烈な一撃を受けながらも立ち上がり、龐煖の矛を弾き飛ばし、胸を突き刺し顔を切りつけたのです!
深手を負ってしまったのは龐煖でした。
龐煖は退却をするはめになり、今回もまた信と飛信隊を討つ事は出来なかったのです。
【キングダム】想像していなかった山の民参戦
蕞攻防戦の最大の奇跡が7日目に起きます。
6日間蕞を守り通した民兵達でしたが、7日目についに城門を破られてしまいます。
昌文君の守っていた西壁を抜かれてしまい、内側から城門を開けられてしまうのです。
城内に入った李牧兵は、他の3門も内側から開け、全方向から李牧軍が一気になだれ込んできたのです。
遂に蕞が陥落してしまったのです。
ただ呆然と眺めるしかない民兵達。
しかし信と政は、蕞攻防戦の最大の奇跡に気づきます!
山の民見参!!!
昌文君の西壁側から現れ、瞬く間に李牧軍を蹴散らしていく山の軍勢。
李牧は元々趙北部の雁門の守備長官を務めていて、騎馬民族の匈奴から長年趙を守ってきました。
そんな李牧にとって、山の異民族が援軍に来るなど想像も出来なかったのです。
山の民の援軍によって李牧は敗北し、合従軍そのものも敗北が決定的になってしまったのでした。
【キングダム】合従軍編は李牧終焉の始まりだった?
合従軍の敗北によって李牧は宰相の任を解かれてしまいます。
そして春申君もまた、楚王からの信頼を失う事となり王宮から遠ざけられてしまいます。
李牧は、魏と趙の国境付近の現場監督回りを任される事になってしまいます。
本来なら斬首ものの失態でしたからしょうがないかもしれませんね。
しかし、あと一歩のところまで追い込んだんですけどね・・・
世知辛い世の中です。
合従軍の失敗が尾を引き、この後に起こる秦の「鄴攻め」への対応で、趙王都の邯鄲の軍を動かしてほしいと趙王に懇願するも、あえなく却下されてしまうのです。
もしかしたら合従軍の敗北で、李牧終焉が始まっていたのかもしれません。
まとめ
合従軍側の大敗で幕を閉じた合従軍編。
敗れはしたものの、合従軍を起こす事そのものがとんでもない事であり、戦いにおいても最後まで秦を苦しめたのは李牧でしたね。
やはり李牧は只者でないと、あらためて感じた戦いでした。
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