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【キングダム】蒙驁が最期に遺した言葉とは?蒙驁の最期は史実通りに描かれている!?

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蒙驁(もうごう)は「白老」の愛称で親しまれる秦国の大将軍であり、蒙武の父で、蒙恬と蒙毅の祖父

城取名人であり、安定感のある戦いが強みの老将です。

武将としての能力は凡庸と言われるも、配下からの人望が厚いほか、桓騎・王翦といった問題児も従えるなど統率力があり、才能を見抜く目にも優れています。

そんな蒙驁は因縁の相手・廉頗に対し弱腰になったり、時には現実逃避を行ったりととても人間味に溢れた人物。

それは六大将軍や三大天を始めとする武勇に優れた英傑たちが数多く描かれる『キングダム』において異彩を放つ魅力であり、そしてその死に方もまた彼らとは違い人間味に溢れたものでした。

本記事ではそんな蒙驁の死亡シーンについて、最期に遺した言葉や史実も併せて詳しくご紹介していきます!

 

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【キングダム】蒙驁の最期はいつ?

蒙驁が死去したのは紀元前240年のこと

前年の紀元前241年には函谷関の戦いがあり、翌年の紀元前239年には成蟜の乱が起こります

蒙驁が亡くなったのはそんな激動の合間の年でした。

『史記』によればこの年、秦でハレー彗星が観測されたと言います。

 

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【キングダム】蒙驁の最期は何巻?

蒙驁の最期は第365話で、コミックス34巻に収録されています

34巻は羌瘣の仇討ちから始まり、蒙驁の死のほか、向の出産や政と呂不韋の勢力争いの激化など秦内部の動勢を中心に描かれました

前年の合従軍の疲労が全ての国に重く残っており、各国が国内に力を注いでいたため、大きな戦が起きなかったからです。

そのため蒙驁危篤の際には信も駆けつけることができました。

 

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【キングダム】蒙驁はなぜ死亡した?

詳しい記述がないため死因については分かりませんが、蒙驁の死に場所は戦場ではありませんでした

多くの部下たちに見守られながら床に伏していたことから、病死あるいは老衰のように見えます

少なくとも「白老」たる蒙驁の年齢を考えれば、この戦乱の世にあって珍しく天寿を全うした『キングダム』の中でも希少な将軍と言えるでしょう。

 

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【キングダム】蒙驁の最期の言葉とは?

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蒙驁の本心

床に臥し危篤状態となっていた蒙驁でしたが、蒙恬と信が駆けつけると奇跡的に意識を取り戻し、上半身を起こして語り出しました。

蒙驁が2人に語ったのは「英雄になりたかった」という胸の内

蒙驁は生国・斉で芽が出ず、息子の蒙武を連れて各国を渡り歩き、秦でようやく戦果を挙げ功を積んでいった人物でした。

しかしそこには自身の何倍もの早さで武功を挙げる、かの六大将軍たちがいたのです。

蒙驁はずっとその栄光の影に隠れ続け、最後の夢の中でまで彼らに気圧されていました。

そんな六大将軍を「早く死ねと思うほどに嫌いじゃった」と素直に語った蒙驁。

しかし同時に「心の底では、かっこいいなーといつも思っておった…六将も三大天も」と嬉しそうに打ち明けたのでした。

 

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最期に遺した言葉

そして英雄になれなかった老人からの金言だとして、英雄を目指す信と蒙恬にこんな言葉を送りました。

蒙恬と信と王賁“三人で一緒に”高みへ登れ。

手を取り合う必要はない。時には対立するのも結構。

ただ三人が意識し合い共に登ってゆけばその関係は必ず大きな力を生む。

六将たちがそうであったように

英雄たちをその目で見ていたからこその言葉であり、そこに混ざれなかった切なさも含んだ重みのある言葉です。

そして信たちが彼らと同じ高みに行けると信じているのでしょう。

そうして三人の才能に秦の未来を見た蒙驁は、それにしても長い旅じゃったのォ」と呟き静かに息を引き取ったのでした。

 

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【キングダム】蒙驁の最期に周りの反応は?

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部下たち

蒙驁の死に多くの部下たちが声を上げて嘆き悲しみました

彼らの姿から、いかに蒙驁の人望が厚かったかが窺えます。

 

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孫・蒙恬

蒙恬は涙ながらに蒙驁を抱きしめました

そして「六将なんかじゃない。俺にとってはあなたが一番の英雄でしたよ。蒙驁大将軍」と秦将として、さらに「ありがとう、じーちゃん」と孫として、敬意と感謝で蒙驁を送ったのでした。

 

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息子・蒙武

蒙武は駐屯先の角炎で敵(魏)に動きがあったため、蒙驁の死に目に会えませんでした

代わりに蒙武は酒を手に、蒙驁と一緒に各国を渡り歩いていた幼少期を振り返ります。

時には借りた納屋で、父と寄り添い寒さに耐えて眠る日もありました。

そうして苦労を重ねながらも、最後には大将軍として天寿を全うした父。

蒙武は天に盃を掲げ、「すさまじい長旅であったな…親父殿…」と献杯したのでした。

 

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元副将・桓騎

そして意外な人物も。

この年、桓騎は魏の汲城を落とし、その際に汲兵を磔にし焼き払いました。

その時「派手にやれ。白老へのたむけだ」と蒙驁を悼んでいたのです。

蒙驁の副将だった桓騎は、当時から蒙驁にだけは敬意の念を見せていました

火炙りというやり方はえげつないですが、桓騎にまでこうして慕われた蒙驁の人望を改めて感じた1シーンでした。

 

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【キングダム】史実による蒙驁の最期とは?

史実での蒙驁も紀元前240年に死去しました

『キングダム』での蒙驁の活躍は、紀元前244年韓攻め、前242年魏の山陽攻略、前241年函谷関の戦い、そして前240年死去と概ね史実通りに描かれています。

死因については不明ですが、記述されていない分もしかしたら『キングダム』のように天寿を全うした可能性もあるのでしょうか。

ただし史実での蒙驁は9年間で70以上の城を落とした名将であり、それこそ作中で「六大将軍」とされる者たち以上と言っても過言ではないほどの活躍をした将ですので、その死の影響は『キングダム』で描かれた以上に大きかったのかもしれません。

 

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まとめ

蒙驁は函谷関の戦いの翌年、紀元前240年に死亡しました。

六大将軍を恨みながら六大将軍に憧れていた蒙驁。

最期は信・蒙恬・王賁に六大将軍と同じ光を感じながら、共に高みへ登るよう進言し息を引き取ったのでした

人を見る目がある蒙驁だからこそ、その言葉は未来を照らしていますよね。

苦労の多い長き旅路の末に、多くの者に慕われる偉大な大将軍となった蒙驁は本当にかっこいい人物でした。

その活躍はもう見られませんが、代わりに息子である蒙武や、蒙驁の金言を受け取った若き将たちが中華を駆ける姿に注目していきましょう!

 

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